反響室の中と外

反響室の中と外

Twitterまとめや書ききれなかったこと、映画の感想、日々の妄言等々。

2021年上期のふりかえり

 2021年というか2021年度開始からとりあえず7月下旬まできて、ひとまずようやっと区切りがつきそうです。まだ月末にえぐい仕事が一件残っているがそれの準備はひと通り済ませたのでよしとする。

 

 個人情報をなんでもペラペラ喋るアカウントなのですでにオンライン通話などの折にお伝えした方もいらっしゃいますし、あるいはツイートからなんとなくお察しのかたもおられたかもしれません。
 春から放送大学に入学していました。とりあえず社会と産業コースで、全科履修生、3年次編入です。
 この半年は韓国朝鮮語のステップアップのために「韓国語Ⅱ」の履修ほか、Twitterでも時々話題になる名講義「人間にとって貧困とは何か」、先日拡散されていた授業科目である「市民自治の知識と実践」などを取っていました。あとは日本語リテラシーとか、オンライン科目で上級向けの英語とか。
 最初なので欲張って9科目履修したら割と首が回らなくなり2週間に一回くらいは仕事が終わって帰宅後何もできず気絶する、みたいなどうしようもない生活をしてたんですが、なんとか単位認定試験の回答の発送はしたのでひとまず乗り切った……かな。ちなみに月曜日に英語、火曜日〜木曜日にそのほか2科目をそれぞれ(合計で6科目)、金曜日に残りの1科目、で韓国朝鮮語は細かく分割して月〜金まで毎日やるスケジュールでした。土日はバッファのつもりでしたが大体食い込んだよね。そりゃ平日に気絶してりゃ食い込むよね。後期の履修登録はもっと減らします…… このスケジュールに加えて仕事の資格試験の日程が重なってきたのでほんとうに地獄である。数科目受けなければ取れない資格で、いつも試験が7月と1月にあるんですが……放送大学をご存知のかたはもうお気づきであろう、放送大学の期末試験とどちらもだだかぶりであることを……
 いやもうどちらもわかってて始めたので続けるからにはまたそんな感じになるんだなハハハと思うことにしています。大丈夫、本気でだめだと思ったらどちらも途中だろうがなんだろうがセーブするから。放送大学に関しては休学もできますし。
 学習方針あれこれまで細かく開示するかどうかはともかく、大学に入った理由の最大のところは「卒業論文が書きたいから」です。テーマは決まってない。大丈夫かね。現時点での最終学歴を論文を書かずに終えているので、そのあたりの内容もですが論文記述の作法を身につけたくて。ここ数年で触れるようになった論文や評論、評論型エッセイがとても面白かったので自分でも書いてみたくなりました。創作系オタクの典型的行動パターンとも言える。
 数年は二足の草鞋でうろうろすることになりそうです。楽しいことがあったらまた呟くので応援してやってください。あといつかどこかよりプライベートな環境で、総合大学などでの卒業研究経験者のかたの体験談が伺えたら嬉しいです。

 

 ご覧のとおり、なのかどうかはわかりませんが、けっこうジタバタしています。現状の会社員としてのステータスだけで今後も生きていけるとはあまり思っていなくて、かといってここから先何ができるのか、それ以上に何「か」できるのか、すべきか、して構わないのかが(当たり前ですが)見えず、けれど立ち止まっているよりはましなはずだと思って手当たり次第にやっていることの大きなひとつ、という感じ。学習そのものが楽しいのでそれとして安らぎを見出しつつ、基盤レベルではまだまだ年単位で苦しい日々が続くんだと思いながらやっていきます。終わった時に新しい道が開けているのか、あるいはもうここまでとすっぱり諦める境地に立つのか、まだその気配さえ掴めそうにありません。

#映画好きの20題 をやってみる

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 敬愛する友人のひとりであるFIGAROさんによる巷で大好評のお題 #映画好きの20題 、遅ればせながら私も参加させていただきます。お題の性質上全部は無理なんですが、答えられるものはできるだけドキュメンタリー映画で固めてみることにしました。こ、こじつけじゃない。私の無駄話はともかく面白いドキュメンタリー映画たくさんあるのでぜひここに挙げたものもそれ以外もご覧になってみてください。

 

1. 映画館で観て良かった映画
『ようこそ映画音響の世界へ』

 いきなりド主観から入った。映画音響技師たちにフォーカスした映画ですが、公開時期が公開時期だったので映画館で見られるかどうかめちゃくちゃ微妙なラインでして……あのときぎりぎりいろんな都合がついてほんとうによかったです……

 

2. パーフェクトショットがある映画
『セメントの記憶』

 シリアからレバノンベイルートに出稼ぎに出ている男たちの労働を捉えた映画の、インサートとして映される走行中にタンクローリー後部から見える世界を模したようなゆっくり回転する道路のカット。

 

3. むしゃくしゃしたとき観る映画
『マン・オン・ワイヤー』

 音楽がマイケルナイマン(※合同参加)だから……
(本気でメンタルが厳しい時は映画見れないです)

 

4. サントラが最高な映画
『すばらしき映画音楽たち』

 反則の自覚はある。ベストドキュメンタリー枠で迷って、かつこのお題自体選べそうになかったんだ。許せ。

 

5. 脚本が最高な映画
『まったく同じ三人の他人』

 ドキュメンタリーにも脚本(というか構成、かな)があるのですが、それが秀逸なのがこの作品かなあと思います。あとはネタバレになるのでとにかく見てくれ。

 

6. 撮影が最高な映画
『大いなる沈黙へ』

 そも撮影が実現するまでにおそろしい時間と労力がかかっているらしいのですが、映像それ自体の質はもちろん記録としての価値も含めて、これを超えるものを実現するのは相当難しいんじゃないだろうか。

 

7. 何度観ても絶対笑う(だろう)映画
『はりぼて』

 笑えるような内容じゃないんですが、笑ったうえで断罪していけばいいんじゃないかな。笑うことは別に常に許すことを意味しないので。

 

8. 何度観ても絶対泣く映画
『RBG』

 本編を見たあと主題歌「I’ll Fight」で泣きます。

 

9. なぜこの人はこの映画に出たのか
ブリュンヒルデ・ポムゼル『ゲッベルスと私』

 個人の存在を批判する意味ではなく、この人が撮影に応じたこと、本人が存命のうちに本人の同意のもと映画が公開されたというのはどういうことか、考える必要はあると思っています。

 

10. どうしても許せない映画

 ここに特定の作品名は挙げませんが、それほどできた人間ではないのでこのカテゴリに当てはまる映画がないわけではないです。

 

11. 頭が上がらない映画
『ビハインド・ザ・カーブ』

 この題材でこの取材対象に向き合うときの制作陣のバランス感覚に頭が上がらないんですよね。つくりとしては一見「よくある」ドキュメンタリーと言えなくないんですが、さりげなくすごいことをやってのけた結果だと思っています。

 

12. ベストドキュメンタリー映画
『光のノスタルジア

 ドキュメンタリー映画ばかり集めてやっぱりこれが不動のベスト。見てね

 

13. ベストお仕事映画
『ニューヨーク公共図書館』

 いい仕事の集大成じゃん……ぶっ続けで見ると尻と腰が死にますが……

 

14. 映画のベストヴィラン
フィッツジェラルド『レヴェナント』

 フィッツジェラルドへのシンパシーというか同化が強くなりすぎてけっこうドツボに嵌りがち。この人間の人生を勝手な自信をもって語る用意がある(せんでよし)

 

15. 映画のベストヒーロー
ジー高慢と偏見とゾンビ

 困ったら高慢と偏見とゾンビでいけると思っている。いやかっこいいですし。
(『タクシー運転手』の光州のタクシードライバーのみなさんもヒーローだなと思ったんですがちょっとつらいのでそのまま挙げられませんでした)

 

16. イチオシ非英語映画
『共犯者たち』(韓国朝鮮語/韓国)

 日本版宣伝ポスターの煽り文「記者が黙った 国が壊れた」、黙るよりなお悪い国内大手メディアを見ている身としてはもう溜息も出ないというか…… いや、それでこっちが黙るわけにはいかんのですが。

 

17. 好きな映画のごはん
『聖者たちの食卓』

 好きな映画のごはんというか好きなごはんの映画というか。インド、シク教の総本山でやっている無償の食事提供を捉えた映画。監督のエキゾチシズムを感じなくないところはどうかなと思ったりもするのですが、それはそれとしてカットごとのパワーが強い。撮影が最高な映画でもありますね。

 

18. 好きな映画の飲み物
ジョージア、ワインが生まれたところ』

 これもどちらかというと好きな飲み物の映画ですね、すみません。ワインのないところに歌がないくだりとか、政治によって否応なく曲げられる日々の営みとか、食と文化のつながりなんてありがちな言葉では形容できない。

 

19. 何だったんだろうって思う映画
『主戦場』

 何だったんだろうと今でも思っていますし、「だったんだろう」と過去形にはなり得ない映画だとも思います。なんなんだろう、どうなっていくのだろう。私に何かしようがあるのだろうか。

 

20. この俳優、この映画で最高に輝いてる
クリス・ヘムズワースゴーストバスターズ

 もはや説明不要かと。俳優としても仕事をする人としてももちろん役も好きです。

 


 結局いつもと同じ映画の話しかしてない気もしなくもないが……いや楽しかったです。できるだけ日本国内で今でも見られるものか過去に一般上映されたものを選んだつもりなので、気が向かれたらぜひチェックをば! それでは。

 

『マルモイ』から再度イ・ヨンスク『「国語」という思想』を見渡す(短評)

 2019年の韓国映画『マルモイ ことばあつめ』(原題:말모이)は、1942年に起きた朝鮮語学会事件を主題に取り、日本による韓国併合から第二次大戦終戦(日本の敗戦・韓国の主権回復)まで行われた朝鮮語弾圧とそれに対する抵抗を描いた作品である。映画の内容についてはここでは述べない。このエントリでは、この映画に描かれた「抑圧する側の言語」であった日本語(というよりも、書籍名にあるとおり「国語」と呼ぶほうが正しい)とその政治思想性、日本の”言語的近代”について論じたイ・ヨンスク著『「国語」という思想 近代日本の言語認識』、及び関連書籍について短く触れる。

 

 著者は本書において、「日本の「言語的近代」は、そもそも「日本語」という言語的統一体が本当に存在するのかという疑念から出発した。「国語」とは、この疑念を力ずくで打ち消すために創造された概念であるとさえいえる」と指摘し、「近代日本の「国語政策」が暴力的だったのは、「国語」の強大さではなく、その脆弱さのあらわれであった。(…)植民地において、いな、日本国内においてさえ、日本はけっして一貫した言語政策を打ち立てることはできなかった」と結論づけている。明治時代に入り、西洋の思想・文化に触れる中で相対化されようとしていた日本語という概念がいかに漠然とした実体の掴めないものであるのか認識し、それを統御しようとした学者・思想家の行動や提言の変遷には恐慌あるいは狼狽とでもいうべきものも見て取れる。一方、本書の中で朝鮮半島における言語政策について直接的に触れている箇所は全14章中2章(第11章・第12章)と分量としては決して多くはない。あくまで主題は「日本の言語認識」であって植民地支配そのものではないからである。しかし、そこに至るまでの、まるで沼のような道筋を著者の導きによって丹念に辿ること、即ち、本書によって表記法、言文一致、「標準語」への指向、そこに絡みつく「国体」なるものへの信仰や同化政策の源泉となる思想について知識を得、彼ら、そして地続きの私自身の中に根を張り燻る、「日本語」に向けられた優越感と劣等感の極度にないまぜになった執拗なまでのコンプレックス(読者としての私はこれをこそ「国語」と理解した)の一端を理解し、そのコンプレックスが他者に、それも”劣位”と一方的に見做す相手に自覚なく向かった時にどれほど悍ましい暴力となって発露されるのかを、「当時」という言葉で自身から切り離さずに知ることは、『マルモイ』で描かれた弾圧それそのものの実態はもちろんのこと、戦後に日本政府が在日韓国朝鮮人たちに対して為してきた政策の背景、及び、たった今日本国内で吹き荒れる(私自身もここに責任のある者のひとりとしてなお止めることができずにいる)コリアンルーツの人々・事象への憎悪の形を把握するため、そしてそれに対抗するためにも必須だと感じた。
 本書は1996年初出の単行本版及び2012年出版の文庫版ともに絶版となっており、現在は最寄りの図書館への問い合わせが最も有力なアクセス手段であろう。機会があればいちどご覧になることをお勧めする。

 

 上述の第12章「「同化」とはなにか」には、日本が朝鮮語を抑圧するにあたって根拠となる法律や一貫した「政策」のようなものは存在しなかった旨の記述がある。これだけでも愕然とするが、近年明らかになってきたナチスドイツのホロコーストへの歩みの再検討などを資料として頭に留めていると、むしろ愕然としてしまうほうが不見識なのかもしれないとも思えてくる。誰しも”そう”なりうる。私も例外ではない。

 

 

 

A.ヘス『レストラン「ドイツ亭」』及びB.ポムゼル&T.D.ハンゼン『ゲッベルスと私』短評

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 読んだ順は間を置かずに前者→後者。ただし前者を読みはじめる1週間ほど前に後者の書籍と同じ制作チームが撮影した同名のドキュメンタリー映画を視聴している。この映画を視聴するに至った動機のひとつとして前者の出版情報があったため、どちらが先、という観念は今回に限ってはあまり重要ではないと判断している。私にとっては相互補完的な作品だったと言えよう。

 

『レストラン「ドイツ亭」』あらすじの時点でおそらく主題は自明なのでそこについてはこれ以上言及しない。とはいえ読んでいて強く印象付けられたのは主人公エーファのナイーブさで、それは結局(大雑把に人間を属性で区切った場合の)「加害者側のナイーブさ」につながっているのだろうなと感じた。これは私自身この属性(国籍・出自)ゆえに持つナイーブさでもあって、この語りの甘さに「「被害者側」の心情を一方的に想像して不快感を覚えながら」、「それでもそうした想像さえ変わり身じみて欺瞞となる自分自身の属性の加害の歴史を思い知らされる」ような読書となった。完全な憶測だがおそらく著者自身この物語を描くことのナイーブさを自覚していて、それでも批判の可能性覚悟でその道しか選べなかったのではないかと思った。そう思わせるような展開も本書には含まれる。
 大戦後、被害者の語りがもう一定以上行われたと捉えるかまだ不十分と考えるかは受け取り手によって差があるはずが、少なくとも、これまでドイツが(本書でも指摘される「集団記憶喪失」の時代以降に)被害者の尊厳回復に努めてきたと内外から捉えられているからこそ出版され得た書籍だろうなと感じる。
 余談だが、冒頭に主人公がポーランド語話者の発言を通訳しようとして完全に失敗するシーンがある。主人公がそれまでずっと商談系の通訳しか行ってきておらず、仕事ではない場で初めて出会ったその人が話す内容の「文脈」を履き違えたが故の出来事なのだが、そのことが拙いながらも第二言語・第三言語を扱おうとしている身に具体的描写として迫った。

 

ゲッベルスと私 ナチ宣伝相秘書の独白』「私」即ちポムゼルの主張には「矛盾がある」、と様々な方面から批評されていてそれはそれでなされるべき指摘ではあると思うのだが、そもそも人間ってそこまで己に整合性を見出せる存在だったことがあっただろうか、などと無駄に主語を肥大化させながら映画を追って書籍を読んだ。いずれも殊更ポムゼル個人のみにその責を負わせるわけでもなければ本人を免罪するような構成でもなく、(特に映画のほうは)制作者の理念だけでない手腕の確かさが窺えた。
「私に罪はない」という発言がキャッチコピーのように切り出されて未見・未読の人の目にも留まるようになっているわけだが、本編ではポムゼルはこの言葉に続けて「ただしすべてのドイツ国民に罪があると言うなら別」と述べている。上述の『レストラン「ドイツ亭」』と照らすと、この条件づけは非常に示唆的ではないだろうか。

 

C. C=ペレス『存在しない女たち』批判的感想

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 前評判がよく、早めに読んでおこうと手に取ったのだが、引っかかる点が多かった。問題の柱は3つ、そのすべてのベースとしてひとつの大きな懸念がある。いくつかは構造的問題であって直接この本即ち著者に責任をすべて帰すものではないが、確実に著者の思想と私が相容れない問題もある。
 それらを整理する。

 

 

女性の権利とは「生産性」のために擁護されるべきなのか?

 著者はデータ及びデータの不在をもって、女性の権利の向上を訴える。それ自体は問題ではない。たとえば装着型のギアや自動車の運転席、ピアノの鍵盤など、当事者であればうっすら気がついていたであろう「アンフィット感」を、改めて本書で指摘されて腑に落ちた読者も多いだろう。
 ただ、本書の主張の中で繰り返されるのは、女性を含めて制度設計すれば医療費の削減に繋がる、GDPが上昇する、効率化が進む、など「生産性向上」を疑いようなくよい結果として示す言説だ。
 また、微妙なニュアンスの部分になるのだが、女性が政治参加すれば弱者・子供にやさしい政策が決定されて社会福祉のレベルが上がる、等の記述もある。もちろん私が主権者として関与している日本とて現時点で公共福祉が行き届いているとはまったく思わないし、税の再分配の配分が弱者をサポートし格差を埋めるものになっているとはとてもではないが思えない。その理由として政策や運用の意思決定者に比較的高齢の男性しかいないことがあるのは容易に推察される。そのような構造によってそもそも女性が意思を表明すること自体を阻まれてきたことも充分理解できる。
 しかし、すべての女性が皆、政治参加したところで上記の政策を推進するものだろうか? もしこの論法をひっくり返して、「福祉や社会保障を充実させるために女性の政治家が必要だ」と読み取るなら、それは単なるジェンダーロールの再固定ではないのか?
 女性の権利が向上すれば、よりよい社会が期待できる。著者の主張はそこで、おそらく大部分で著者の指摘したとおりになるだろう。私も同意する。しかし問題は、ここで読み手が短絡的に「女性が進出するとメリットがある→メリットがあるから女性を進出させるべきだ」と読み替えることができてしまうところだ。
 女性に限らず弱者の権利は「有益だから」下支えされるようであってはいけないし、成熟した社会の当然の行為として是正されねばならない。そうでなければ、「現状を変えたところでメリットがないならこのままでいい」という資本及び効率至上主義的思想に自ら呑まれてしまいかねない。

 著者の略歴を読んでなるほどと思ったのは、行動経済学を学んだうえで本書を執筆している点だった。ジェンダーに基づく行動経済学の実践を謳う書籍には、既にイリス・ボネット著『WORK DESIGN 行動経済学でジェンダー格差を克服する』が存在する。こちらの書籍にも近年上記と同じ懸念を抱いたが、ボネットは女性の権利はそれそのものとして擁護されるべきだが、と注意深く前置きをしている(もちろん、それで著作の記述がすべて好意的に受け止められるようになるというわけではない)。また、「女性のことは女性に決めさせろ」という主張はもちろんごく当たり前のこととしながらも、果たしてそれだけでよいのかと言葉を選びながら思案したのは『舌を抜かれる女たち』のメアリー・ビアードだ。
 本書の著者とてこのようなある種のジレンマを理解していないはずはなかろうが、しかしすべてを善意的に解釈するには少々難しさを感じる。私の主張とて理想論だが、果たしてこの本を鵜呑みにしてしまってよいのだろうか?

 

男性中心社会をつくり維持してきたのは男性だけか?

 副題が示すとおり、本書に通底するのは男性優位的状況への批判だ。それはよくわかる。男性優位の社会の中で、どれだけ女性や弱者の声が抑圧されてきたか、それを否認する気は一切ないし、当然その直接的行為者の多くが男性であることも決して間違いではない。
 しかし、あるいはだからこそ、立ち止まって考えたい。男性優位の社会をつくってきたのは果たして男性だけなのか?
 本書の第16章「死ぬのは災害のせいじゃない」に2004年に発生したスリランカ津波についての指摘がある。そこには、少女や女性は社会規範上木を登ることをよしとされず習ってこなかったがゆえに津波に襲われ多くが犠牲になった旨の記述があるが、その社会規範を実践し、世代を超えて伝え続けたのは男性だけだと言えるだろうか? 木登りする少女をはしたないと嗜める社会の加害者は、ほんとうに男性だけだったのか?

 この問題についてはケイト・マン著『ひれふせ、女たち ミソジニーの論理』に詳しい。男性優位社会、即ち家父長制は、男性を加害者、女性を被害者に単純に置けるようなシンプルな問題ではなく、ミソジニーとは複雑に絡み合った賞罰システムであると本書は細かく解説する。もちろん、「社会のせい」で個々の男性の一切を免責するのは間違いだ。しかし、だからといって問題のすべてを男性のせいとするのもまた正しい世の中の捉えかたではない。少なくともこの男性優位社会をつくってきた人のうちには、あなたや私も含まれるのである。


犬笛

 これが本書の中で私が最も問題視する記述である。

優秀バイアスが生じる原因は、少なからずデータの欠落にある。歴史上の人物には女性の天才も大勢いるはずなのに、なぜかすぐに思い浮かばない。結局、「優秀さ」が職務要件となっている場合、それが本当に意味するところは「ペニス」なのだ。

 本書の118ページ、第4章「実力主義という神話」内、優秀さのイメージについての説明の途中で唐突に出現する「ペニス」という言葉。
 それでは、ペニスを持っているにもかかわらず、そのジェンダーアイデンティティによって周囲から拒絶され学校に通えなくなったり、就職自体することができなかったり、精神の健康を損なって職場を後にせざるを得なかったりする経験を持つ人が多いトランスジェンダー女性に対して、筆者は同じ言葉を発することができるのだろうか。あるいはペニスを有しないまま男性としての生活実感を獲得しているトランスジェンダー男性については? この文脈で問題にすべきなのは、ペニスという身体的特徴ではなく、「マスキュリニティ=男性性」ではないのか。
 これは明らかな身体至上主義であり、身体至上主義はここではトランスフォビアへの誘導になりうる。著者がシスジェンダー以外の人間の存在を認識・意図しているか否かにかかわらず、こうした主張は「犬笛」としてトランスフォビアを煽るものだ。私はこの表現を断じて許容できない。*1

 

おわりに:これは学術書ではない

 これまでの政治やアカデミア、労働市場などさまざまな世界をジェンダーの視点から見直す動きは、過去に存在しなかった視野の提供であり、社会改革を後押しするための動きになる。実際、本書の著者が拠点を置く欧米圏だけでなく日本を含む様々な国や文化圏でも同じ運動が興隆しつつある。
 しかし、ここで注意深くあらねばならないのは、「データの不在」は「不在」でしかなく、そこから推定される現状の問題はあくまで「推定」でしかないことだ。ジェンダーによって引き起こされている可能性の高い状況であっても、そこにあるファクターがジェンダーだけとは誰にも証明ができないのだ。人種は? 宗教は? 障害は? 年齢は? 経済格差は? これらやこれら以外のあらゆる要素の存在を加味せずに、「不在」だけをもって性別(それもたった二つしか認識されていない)に結びつけようとする記述の多い(と、私には読める)本書は、一般書として参考にはなるが専門書・学術書として認識するには危険度が高い。
 データが不在であるなら、集めなければならない。それを丁寧に実践している学術書としてアーシャ・ハンズ編『インドの女性と障害 女性学と障害学が支える変革に向けた展望』があるので、興味のある向きはこちらと比較していただくとその姿勢の違いが明らかになるだろう。

 本書の主張や著者の意図は道理に適っているように見える。心情的にはある程度私も理解できる。
 しかしそれはあくまでも思想及び理想であって、「事実」とは言い切れないことを、何度も何度も自分自身に警告しなければならない読書だった。
「データの不在」を「状況証拠」に近い現状の観察で埋め、それをもって「事実」に置き換える。それを続けた結果、なにが起こるのか。この懸念について、『争点としてのジェンダー 交錯する科学・社会・政治』巻末の補論において、著者のひとりである江原由美子が警鐘を鳴らしている。

 

 本書に興味を持っている未読のかたの意思決定に口を出す気はない。しかし、私個人としては、本書を手に取るのであれば可能な限りこれまで私が挙げてきた別の書籍にも目を通していただきたいし、それ以外のこれまで刊行されてきた様々な文献にも当たっていただきたい。もっと言ってしまえば、最低限上記それぞれの書籍があれば、本書の主張の背景にある原理や問題点は概ねカバーできると感じた。

 この本を「純粋に」受け止めてしまうこと。それは最終的に、再び2021年1月6日のアメリカ・ワシントンDCに結びついていくのではないか。
 私はフェミニズムが「オルタナ・ファクト」の燃料として投じられる姿を決して見たくはない。

 

 

*1:身体至上主義的記述は他にもあって、194ページ「「女性=専業主婦」の問題に関する論文の著者たちは、新しいアルゴリズムを考案し、ジェンダーに関するステレオタイプ化(たとえば、「彼」という単語を「医師」に、「彼女」という単語を「看護師」に結びつける)を、3分の2以上も減らすいっぽうで、ジェンダー的に適切な表現(たとえば、「彼」と「前立腺がん」に、「彼女」と「子宮がん」)は確保することに成功した。」を挙げておく。子宮がんになりうる私は「彼女」ではないのだが、その辺りはどう説明してくれるのだろう。