「わたし」を忘れないで
『グランドフィナーレ』を見ていてどうしても引っかかってしまったことがあり、結局それを感想に書き、ツイッターにも中途半端に書いてしまったので、なんだかなあと思いつつまとめることにする。フックがこの映画になってしまったことを否定することはできないけれど、作品自体を嫌ったり批判したいわけではないことも念の為言い添えておきます。
感想記事はこちら。
作中何が気になったか、改めて正直に言ってしまえば、「若さの象徴」というやつは若い女の裸じゃなきゃだめなのか? という一点に尽きた。もちろん精神的な意味での「若さ」も描かれていたが、その繊細さに対して視覚にダイレクトに訴えかけてくる裸というやつは本当に暴力的でたちが悪い。
私の価値観の話になって恐縮だが、私は「身体が(特に裸体であったり非常に「性」を感じさせるものとして)映る映像」にはものすごく神経を尖らせてしまう。そして本作に関して言えば、その「裸体の描写のしかた」は私には受容しがたいものだった、という判断をするに至った。理由は単純で、そこに「性」や「若さ」としての意味は感じても、「その人」である意義を感じなかったからだ。平たく言えば登場した裸体たちは作品上多少の台詞のある単なる「オブジェ」で、「登場人物」である必然性がなかった。
映画だけではない。たとえば車や酒などの(男性をターゲットにした商品の)コマーシャルで無意味に女性の胸や尻がアップ撮影される=女性の身体を商品化する=性的な意欲を購買に結びつけようとする、という映像の手法における一連の論法も基本的な価値観は同じだし、あれは資本が動いているのでよけいにたちが悪い。
いつも思う。そこには「身体」ではなく「ひとりの女性」がいるはずなのに、と。
もちろん、だからといって、同じくらい男性の身体も消費されればいい(対等になる)とは思わない。一時の溜飲はもしかしたら下がるかもしれないが、それは自分がされて嫌だったことを相手に仕返しする思考回路と変わらないし、最終的に求めたいのは、男女を問わず、その身体を持つひとりひとりの人間に対して敬意の込められた作品に出会いたいということなので。
(余談だが、同じ理由で、定期的にSNS上を巡るトムハのトムハやトムヒのトムヒなどの話題もあまり好きではない。レアケースではあろうが、あれも男性の身体の一方的な消費のひとつの形に過ぎないという理解でいる)