反響室の中と外

反響室の中と外

Twitterまとめや書ききれなかったこと、映画の感想、日々の妄言等々。

『或る終焉』/手招き

原題:Chronic(2015・墨/仏)

 

 もう廃れてしまっているのかもしれないが、葬儀に参列した後、その参列者の帰宅時に塩を振る習慣が日本にはある。ついてきたものを家に入れない為だと。

 また、誰かの四十九日を過ぎるまでにその知人などが亡くなると、決まってまことしやかにこう囁かれる。ああ、あの人、呼ばれてしまったんだね、と。

 そんなことを想起させられる映画だった。

 

 死に向かうというのは難しい作業なのだろうな、と、私は死にゆく人の目線からこの映画を疑似体験した。動かせない身体、途切れることのない不調、そして意のままにできない消化活動や排泄。自分の身体の主導権が自分自身から失われる、そのえも言えない確実な尊厳への打撃。

 そしてそれ以上に手痛いのは周りの生者の存在なのではないだろうか。

 単なる私の持論だが、生きている人間というのはそれだけで膨大なエネルギーを放出しているものだと常日頃感じている。無自覚に溢れ出る言動や感情のエネルギー。生命力と言い換えてもいい。個人個人が生きる為に放っているそれが、弱っている人間に抽象的ながら猛烈なダメージを与えてしまうことが起こりうる、と。

 

 そんな衰えた者たちを支えるにはどうあればよいか。ティム・ロス氏演じるデヴィッドの姿勢は、ひとつの回答の具体例だったように思う。つまり、「彼らのほうへ歩み寄る」ことだ。

 簡単な話ではない。彼らのほうというのは「死に近いほう」であって、そこに寄るというのは自身のエネルギーも減ずることを意味する。そうしなければ彼らを傷つけずに近寄ることができず、しかし近づくだけ死を傍に呼び寄せる。

 随分個人の意見を多く挟んでいるが、あながち外れてはいないはずだ。作中、患者たちは騒ぎ立てる周囲の人間たちにじっと耐え(時に毒づき)、しかしデヴィッドには全幅の信頼を置きケアを任せていた。状況だけがそうさせたのではないだろう。彼が自分たちをその生きるエネルギーで傷つけることがないことに彼らは気がついていたに違いない。実際、デヴィッドは彼らの傍にいた。彼が能動的に起こした患者の近親者を演じる奇妙な嘘や資料集めなどの行動以上に、彼自身の様々な過去や状況が彼を患者たちに寄り添いやすくさせていた。具体的に言えば彼を荒廃させていた。

 娘の存在やジョギングが、仮に彼をそちら側に行き過ぎないよう引き止めていたのだとしても。

 

 物語中盤、トレーニングジムのカウンターにタオルの取り替えを要望したデヴィッドが、袋にパウチされた状態のままの新品を敢えて頼むシーンがある。

 それは単に潔癖症だということではなく(実際、それ以外のシーンで特に彼が異常に潔癖だということを示すような描写はない)、既にデヴィッド自身も生きている人間のあの感覚に耐えられなくなっていたからではないか、と邪推した。

 

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 映像表現としても非常に面白い。基本的に固定されて動かないカメラが映す長方形のはずの画面は、車のルーフや窓枠、開いたドアの開口部などによって様々な形に切り取られていて、その中の光と影が絵のように浮かび上がって見えた。

 そして何より、主役の表情をしっかり確認できる場面がほとんどない(デヴィッドが映る場面は多いのに、大半がフルショット、アップの場合でも後ろ姿か横顔まで、もしくは陰影に遮られてしまう)ことに、何か穏やかだが冷ややかな怖さを感じたのも印象的だった。