反響室の中と外

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Twitterまとめや書ききれなかったこと、映画の感想、日々の妄言等々。

『母の残像』/手を繋ぐ、選択

 本文の前に:
・このブログの映画感想記事は個人の所感を記録することに特化しています。
・基本的に公式宣伝やインターネットなどで触れられるあらすじについて改めて言及しません。数多ある感想ブログの中ではかなり不親切な部類に入ると予想されます。
・息を吸って吐くようにネタバレをします。ご注意くださいませ。

 

 

原題:Louder Than Bomb(2015・那/仏/丁)

 

 失礼は承知だがこの作品、邦題と日本版予告に些か問題があるように思う。事故死した母の存在(むしろここは不在というべきか)は確かに小さくはない要素なのだろうけれど、本編を見る限り、登場する家族の構成員それぞれがそれぞれの状況の中でひとくちには言い切れない思いや事情を抱えていたしその重さは均等だった。均等ゆえに共鳴し影響し合う、それこそが(うまい訳も解釈も思いつかないのだけれど)「louder than bomb」と名付けられた所以なのでは? と感じたので。

 

 と、重箱の隅を突きつつ、短く所感を。物語の紹介ではない(が、作品の勘所には触れてしまうというややこしい)旨を先にお詫びしておく。

 

 とても繊細で、丁寧で、美しい作品だった。

  完璧な家族などない。家族だからこそ互いのいびつさを察し、自分の輪郭を隠し、しかし近すぎる為に摩擦を起こす。彼らの場合においては、様々な事情によってそれがほんの少し表面化しただけのこと。あらゆる家族という小さな単位のコミュニティが潜在的に抱える閉塞感と齟齬をひとつの要素をきっかけにひとつの事例として浮かび上がらせる、それほど意表を突く進行とは言えない本作をそれでも繊細で丁寧だと評したいのは、いち家族・一事例としてのリード家の構成員たる四名(亡くなったイザベルでさえも)が、それぞれにどうしようもないいびつさや噛み合わなさや孤独感を抱えながらも、手探りで、危うい足取りで、不器用なやり方でもって、家族として互いに指と指とを繋ぎ合わせるよう少しずつ行動していく、そのこころや関係性の変化が全編に渡って描かれていたと思えたからだ。
 家族でいるというのは理想の結果でなくてもいい。リード家の「再生(厳密には再生の糸口を思わせる静かな結末)」が美しいのは、それが彼らが悩みながらも「主体的に」「選び取ったこと」だからなのだと思う。即ち暴論を承知で言うと、彼らがそのプロセスを踏まえてさえいれば、どんな結末であっても私はそこに尊厳という美しさを見出すことができたと確信している。

  ……冒頭に述べた邦題の違和感も、その主題を明文化できない環境のせい、と、言えなくもないのかもしれない。残念なことに。