反響室の中と外

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Twitterまとめや書ききれなかったこと、映画の感想、日々の妄言等々。

『ナイトクローラー』と、物語に溺れるということ

 本文の前に:
・このブログの映画感想記事は個人の所感を記録することに特化しています。
・基本的に公式宣伝やインターネットなどで触れられるあらすじについて改めて言及しません。数多ある感想ブログの中ではかなり不親切な部類に入ると予想されます。
・息を吸って吐くようにネタバレしたり作品の見せ場について濃ゆいコメントをしたりします。ご注意くださいませ。

 

原題:Nightcrawler(2014・米)

 

 いつも通りの注釈を上につけてはいるものの、旧作につきというのもあるし既に明確な問題提起のある作品だと感じたこともあり、それに対して私があえて言い足したいことは特にない。ので、最近やっとこさある程度形にできそうだなと思っていた日頃の考えを本作にかこつけて書き残しておく。要するに映画の感想というより自分語りというやつ。面倒そうだなと思われた方はどうぞ回避してください、自分でも面倒臭い記事になりそうな気配をまざまざと感じて若干嫌気が差している。


 物語には力がある。それは実際恐ろしいほどの力で、私はもっとその力に対して慎重にならなければならないのではないか。そんなことを以前『ハドソン川の奇跡』を観たときに寒気とともに書き残したのだが、なんのことはない。こんなに近くに答えがひとつ転がっていた。
 物語る力というのはある意味で自己愛の力なのだなと、ルイスの強烈な人格を見ていて思い知らされた。そして同時に、誰かの物語を・あるいは誰か「を」物語「として」消費することもまた巡り巡って自己愛の充足に手を貸すのだと。
 人間は物語が好きだ。物語の登場人物に共感し打ち震える自分が好きだ。そうやって物語を消費しながら、自分の身の安全を大切に撫で回すのが好きだ。劇中のテレビ局が流すニュースの欠片だけではない、実際に私たちが見るニュースやドキュメンタリーとて充分に手を加えられ、過剰なほどの物語性をもって私たちの判断力を揺さぶる。情に訴える。恐怖を煽る。義憤につけ入る。そしてただ誰かの物語を消費するだけでなく、今や私たちはSNSを始めとするインターネットの上の様々なプラットフォームによって、簡単に自分を物語にして提供する手段さえ得てしまった。誰もが自分をコンテンツ化しその物語性の優越を競う世界。ああ快感だ。好きに自分を語れることほど気持ちのよいことはなかなかない。このモノの満ち足りた世の中で、競うことといえばもうそれくらいしか残っていない。
 何が悪いのかと問われれば、ひとまず私は口を噤む。けれど、他人の振る舞いはともかく、私は物語化した出来事たちによって自己愛を刺激され肥大化させたくはない。私はルイスにもニーナにもなりたくない。大きくなった自己愛はいずれ必ず他人を踏みにじり、外の世界へ向ける目を曇らせるだろうから。

 まさしく自己愛への固執としか思えないブログ記事で自己愛に対する警告をするなんて矛盾もいいところだと思う。笑ってくださって構わない。それでも、抗いがたい物語化への誘惑に、私はせめて自覚的でありたい。

 

 本来本論として書くべきところだとは承知しつつ、本作で一等好ましかったのは、主人公ルイスが(あれだけの人格破綻者でありながら)脚本や演出や演技において通底してその存在を肯定されていたことに尽きる。ルイスの視点から「語られる」「物語」なのだから当たり前と思われるかもしれないが、それでも、それらが最初から最後までルイスの価値観にぴったりと寄り添って離れなかったからこそ、翻って作品として筋を通し、要点をクリアにしたのだなと感じられた。問題のある人間の目線に立ち続けるのは決して簡単なことではない。