反響室の中と外

反響室の中と外

Twitterまとめや書ききれなかったこと、映画の感想、日々の妄言等々。

2歳児、勤続20年

 先日友人たちと遊びに出かけたときにものすごい気づきを得たので書き残しておく。ちなみにただの愚痴である。しかも思い出し愚痴というどうしようもないジャンルの散文である。人様の役にはたぶんあまり立たないので、時間を無駄にしたくない人はウィンドウを閉じることをお勧めする。

 

 端的に言うと、友人たちは最高だった。何が? 彼女たちは自分の機嫌を自分で取っていたのだ! それも完璧に!
 詳細は省くが、少し遠出をしたら雨が降ってきて、かつ全員その目的地を訪れた経験がなく、挙げ句の果てには発案者のお目当てだったイベントがキャンセルだったという振り返ってみるとそこそこお粗末というか無計画な一日だったなと思うのだが、それでも我々は充分に楽しんだ。少なくとも私には非常にいい思い出になった。
 しかしいちばん大きかったことは、上記のことに気がつき、かつ、知らず知らずのうちに彼らの機嫌を伺わなければならないとプレッシャーを感じていた自分自身に気がついたことである。バスを乗り間違えたとき、雨が降ってきたとき、予定が狂ったとき、私はほとんど自動的に「彼らが機嫌を損ねるのではないか」と怖れを抱いた。そしてそれはすべて杞憂に終わった。彼らは終始穏やかで落ち着いていた。
 これを書き留めるべきこととして受け止めた自分が、かえっておかしな存在だったのかもしれない。

 感情の発露のきっかけが読めない両親に育てられた。
 典型的な亭主関白の家庭を想像してもらうといい。父も母も当時の「父親」「母親」としては充分以上に子供のことを気にかける人たちだったと思うのだがこればかりはどうにもならなかった。突然怒鳴り始める父、じりじりと苛立ちを募らせる母。自然、きょうだいも“そういう”感情表現をした。勿論私もそうだったのだろう。私が家族と聞いて最初に思い出すのは夫婦喧嘩をしたのち家を出た母が二度と戻ってこないのではないかと怯える気持ちと、完璧主義でいつも不機嫌だった妹の睨むような視線のふたつである。
 私はずっと、「家族」というのを非常に壊れやすいもののように思ってきた。これは当時一緒に育ったはずのきょうだいの価値観とも違っていたようで不思議でしかたがない。

 ともあれ、それが普通だと思って生きてきた人間が、なんの因果かそれが常態の会社に就職してしまった。

 少なく見積もっても社員の六割以上の人々が、ひどく感情を露わにする環境だった。
 今だから言う。あれはおかしい。
 なぜ四十も過ぎた先輩社員に、リクエストされた備品を確保できなかったからといって眉を顰められ溜め息をつかれねばならなかったのか。なぜ用事があって訪ねた人に「あのさあ、俺、疲れてるんだけど」と開口一番詰られねばならなかったのか。なぜ、「新人の仕事は先輩が気持ちよく仕事できることだから」と教わらねばならず、それをごく当たり前の常識のように受け止めねばならなかったのか。
 異動によって職場が変わった際に少しましにはなったが、それでもひどい人はいた。

 きっと珍しいことではないと思う。もっと凄まじい環境を経験していたり、あるいはその真っ只中にいる人も多いだろう。自分が特別に劣悪な状況下をやり過ごしてきたと言うつもりはない。
 それでもこうしてなんとも言えない文章を書いているのは、これが決して当たり前の状況ではなく、自分がそんな風に他人に対して気を揉まなくともよいことに気がついたのが、家族から離れて何年も経ち退職から一年以上も経過した今更であったことに関して、自分自身への驚きを禁じ得ないからだ。

 謙遜ではなく、私は空気を読んだり人の様子を察したりといういわゆる感情ケアのスキルがものすごく低い。私自身がかなり扱いにくい脳みその持ち主であることと関連があるのかどうかはわからないが、とにかく物心ついたときから他人の気持ちとやらがわからず集団行動に苦手意識がある。けれど、もし、もしも今までずっとやらなければならないと思い込んできた他人の機嫌を伺うことをしなくていいなら、もしかすると私はすごく楽になれるのではないか? もし自分の面倒を見ることに適切な脳内メモリを割けるなら、結果的にコミュニケーションに対するネガティブなイメージを少しでも改善することさえできるのではないだろうか?
 まったくもって推論の域を出ないし、相手あってのことを果たしてどれだけ実証できるかもわからないのだけれど、可能性の話だけで既に目から鱗が止まらない。
 相手の機嫌を伺わなければならないと思うこととそれが苦手だという自意識は私の対人関係における最も大きな懸念だったので。

 自分の機嫌は自分で取れる人であるべき、とツイッターでも何度も回ってきていて、少なくとも私の年代や私より若い人たちはそれでいいことにもう気がついているような気がする。
 ただ、それまでずっとこの手の環境に巻き取られて生きてきた人間、特に他人のケア労働に強制的に従事させられてきたであろう多くの(社会的)女性にとって、それを普通ではないと認識するのも決して簡単ではないのではないだろうかと実体験を経て考えた。

 主に自分の為に改めて書いておきたい。
 自分の機嫌は自分で取ろう。それはつまり、ケアをするのは自分の機嫌だけでいいはずなんだ、という話。誰も自分以外の誰かの、たとえばいい歳をした会社の上司や先輩や、あるいは血の繋がりがあるからといって親のご機嫌の面倒を見てやる義理などないはずなのだ。
 それを強要してくる者に遭遇したとき、少なくとも自分がそれを強要されている事実に気がつけるように。

 誰も他人から押し付けられた感情を手当てする義務はないし、自分の感情を他人に明け渡すべきではない。
 自分を大事にしよう。そうすれば自分の中に適切な余裕ができる。余裕ができることで、きっと自ずと相手のことも大事にできるようになれると思うんだ。

 

 追記:
 ちなみにきょうだいだが、最近行動を共にしたところ既にこの点について自覚のうえ行動を変えていたようで、結果的にはむしろ私のほうが気がつくのが遅れている。次回顔を合わせたときに改めて話を聞かねばなるまい。たぶんというか確実に、私も彼らに過剰な感情ケアを押し付けてきたはずなので。