反響室の中と外

反響室の中と外

Twitterまとめや書ききれなかったこと、映画の感想、日々の妄言等々。

私を(または、私が)動かしたもの:What Are You Gonna Document?

 

 

【目次】

はじめに

前編(約9,500字)
1. 私とドキュメンタリー映画
2. 山形国際ドキュメンタリー映画祭について
2-1. 概要
2-2. 山形、行ってみた感じ
3. 映画祭のいいところ
3-1. ドキュメンタリー映画というプラットフォーム
3-2. クリエイターと観客の距離の近さ
3-3. 情報交換は積極的に
3-4. ボランティア、スタッフについて
4. 鑑賞した映画
5. まとめ

後編(約6,500字)
1. そもそもドキュメンタリーとは
2. ドキュメンタリー映画である意義
3. 大きく見開かれた目のように
4. 余録


はじめに

 こんにちは、トモイです。Twitterを空回り気味の脳みそとほぼ直結させている映画好きのおたくです。このたびはとさん @810ibara のアドベントカレンダー企画 #ぽっぽアドベント に参加させていただいています。
 既に私を除いて総勢48名のみなさまを動かした様々なものに関する最高のエントリが読めますので、詳しくはこちらから。

 

 記事そのものも勿論ながら、ご主催のはとさんによる各投稿の紹介文がとても素敵なので、こちらのツリーもぜひどうぞ。それぞれの記事のポイントだけでなく書き手の人柄をもさらりと掴んで短くわかりやすくプレゼンしてくださっていて、主催としてもプレゼンターとしても尋常でないオーガナイズスキルです。尊敬と共に、はとさんの企画に参加できてほんとうに嬉しくありがたく思います。

 
 そして私の「私を動かしたもの」。せっかくの機会なので自分のアカウントの大きな構成要素のひとつである映画に関して、そしてこれまでまとめて記録することのなかったドキュメンタリー映画について考えてみたいなと思いました。
 目次でお知らせしているとおり、この記事は前後編です。前編では、2019年に私が体験したいちばん大きな映画イベント、山形国際ドキュメンタリー映画祭(以下YIDFF)の話をレポートします。後編では、映画祭という個別の事例を離れ、ドキュメンタリー映画及びドキュメンタリーに寄せる思いを記述しました。
 前編と後編は共通のテーマによって緩やかにリンクしていますが、内容は独立しているため、どちらか一方だけでもお楽しみいただけますし、後編を先にご覧いただいても問題ないつくりになっています。文章のテイストもそれぞれ少し変えていますので、お好みに合わせてどうぞ。

 

後編を先に読む


前編

1. 私とドキュメンタリー映画

 YIDFFに繋がる最初のきっかけは、2018年の春にカナダはトロントにてDot Docs Documentary Film Festivalという国際ドキュメンタリー映画祭のボランティアをしたことでした。その後、帰国してからYIDFF主催者のかたと話をする機会によって映画祭の存在を知り、今回足を運ぶに至っています。
 ドキュメンタリーの映画祭というとどうしても一般の映画祭に比べると知名度は劣りますが、見渡すと素敵な映画祭がたくさんあります。上記Hot Docsは北米最大のドキュメンタリー映画祭ですし、また世界最大規模の映画祭はオランダ・アムステルダムで毎年11月末に開催されています(International Documentary Film Festival Amsterdam)。最も歴史のあるドキュメンタリー映画祭はドイツ・ライプツィヒのDoc Leipzigだとか。いつかいろんな映画祭を回ってみたいものです……5000兆円欲しいな……
 失礼、話がずれました。本題に入りましょう。


2. 山形国際ドキュメンタリー映画祭について

 さて、いろいろ言えどもやっぱりYIDFFってイベントとしてはマイナーなのでは……? というところもあると思うので、ひとつおさらい(という名のダイレクトマーケティング)でも。

 

2-1. 概要

 正式名称は山形国際ドキュメンタリー映画祭、略称はYIDFF。1989年に始まり、山形市で2年に一度・10月に開催されている、日本最大の国際ドキュメンタリー映画祭です。今回で第16回目を数えました。公式ウェブサイトはこちら。

YIDFF Official Site

 過去の受賞作品にはラウル・ペック私はあなたのニグロではない(第15回)』、パトリシオ・グスマン『真珠のボタン(第14回)』『光のノスタルジア(第12回)』、フーベルト・ザウパー『ダーウィンの悪夢(第9回)』などが含まれます。また、今回コンペティション部門に出品されたフレデリック・ワイズマンインディアナ州モンロヴィア』が審査員特別賞を獲得するなど。(すべて敬称略)
 チケットは公式ホームページで購入し郵送してもらうか(私はこの方法を取りました)、チケットぴあの利用も可能です。作品単位の販売ではなく、1回券・複数枚綴り・フリーパスという考え方。滞在日数やお目当ての作品数で検討するのがよさそうです。
 会場は公民館や市民会館、ギャラリーや、またシネコンのシアターをいくつか借りるなどして実施されていて、会場から会場への所要時間は最大で徒歩20分ほどでしょうか。JR山形駅の東側エリアにコンパクトにまとまっている印象でした。
 とはいえ作品数は多い! 今回は8日間で167作品が上映されました。コンペティション作品だと複数回上映があるのですが、小規模なものについては文字通り一期一会ということも充分にありうるかと。ちなみにこれ、どういう上映状況だったのかは公式サイトをご覧いただくのがいちばん手っ取り早いだろうとは思うんですが、多いときで一日30本以上上映されています。5人ぐらい分身が必要。やばいのは作品数だけじゃなくランタイムもで、いちばん長いものだと休憩時間抜きで8時間25分(!?)でした。
 私自身は体力の兼ね合いや天候の影響もあって2泊3日で7本、例年設けられているインターナショナルコンペティション及びアジアコンペティション「アジア千波万波」の一部を見たのみですが、これ以外にもコンペティション外の出品枠として「AM/NESIA:オセアニアの忘れられた「群島」」「リアリティとリアリズム:イラン60s-80s」「春の気配、火薬の匂い:インド北東部より」「やまがたと映画」などなど、特集プログラムが多く組まれています。会場で知り合ったかたにはやりくりして一日5本見たという猛者も。数じゃないとはいえ見たくても見逃してしまったものも多かったので、次回は体力気力を充填して万全の状態で臨むか滞在日数を増やすかというところ。どっちもかな。個人の観測ですがお客さんの入りもとてもよかったです。今年の来場者は主催者発表で22,000人以上だったとのこと。

 

2-2. 山形、行ってみた感じ

 山形市におじゃまするのも初めてだったので、交通事情なども含めて少し記載。
 地球温暖化のことを考えるとおすすめするのは気が引けますが、遠方からのかたは飛行機がいちばん便利がいいかなと思います。山形空港は札幌・東京・名古屋・大阪に発着便あり。中四国以西にお住まいの場合は大阪か東京まで出てくる必要がありそうです。山形空港からJR山形駅まではシャトルバスが出ていて、30分足らずで市街地に入れます。
 もちろん、南から北上する場合だと東北新幹線を福島で乗り換えて山形に入るというルートも一般的です。移動距離が長かった私などは、もうちょっと特急料金がお手頃なお値段になってくれるといいなあとつい思ってしまうのが世知辛いところではありますね。
 ちなみに、仙台ー山形間は電車も走っているのですが、それよりバスの本数がかなり(10〜20分間隔で)あります。山形のタクシーの運転手さんが「みんな路線バスのノリで使ってますね」と仰ってました。そちらもチェックしてみるとよいかもしれません。
 と、そんな感じで交通の利便性がかなり高い山形市エリアなんですが、一方宿泊施設のほうは若干心許ないです。特にゲストハウスがすごく少ないので、宿泊費を抑えたい場合(ええ、私のことです)ちょっと厳しい。しかもこの時期、映画祭関係者のかたもたくさんいらして滞在するのもあってか、近場の宿を押さえるのがかなり難しくなってました。7月下旬の時点で会場から徒歩圏内のホテルは全滅か、安くても一泊5桁に近かった記憶……。結局私は距離に関しては割り切って、市街地から車で15分程度かかる蔵王に近い宿を取り、朝会場に向かうには路線バス、夜はタクシーを利用しました。古い旅館だったんですが温泉つきでしたし、Wi-fiも整備されてましたし、経営者さんもいろいろ気遣ってくださってありがたかったです。飯田温泉。
 ご飯どころもいろいろです! 居酒屋が多めではありますが洋食のお店もありますし、会場周りでカフェランチなども。せっかくなので山形のおいしいものを探してみるのも楽しみのひとつかなあと思います。芋煮とかね。

 

3. 映画祭のいいところ

 そんなこんなでYIDFFに行ってどうだったかを書いていこうと思うんですが、結論から言えば、せっかくドキュメンタリー映画を見るなら普通の配給よりも断然映画祭のがいいよ!! のひとことに尽きます。
 もちろん、日程や距離や資金や体調など人それぞれ様々な制約がある中、できるだけ条件のよい形を選べる通常の映画館での鑑賞や、そもそも劇場上映ですら機会の限られるドキュメンタリーをいつでも自分のプライベートな空間で見られる配信・レンタルのメリットは承知ですし、よい映画はどこで見たってよい映画です。けれど、特定の場所で特定の日数開かれる映画祭というイベントの最大の強みである直接的交流を経ることで、ドキュメンタリー映画の魅力は何倍にも増えるよということを、ここでは強く押していきます。

 

3-1. ドキュメンタリー映画というプラットフォーム

 これはHot Docsに関わっていたときにも感じたことですが、映画祭、それもドキュメンタリーとなると、来場する人の層に一定の傾向が出てきます。ドキュメンタリー映画祭というイベントに限った話ではありませんし、マイナーなジャンルほどその傾向が強いのは想像に難くありませんが、基本的に対象を好きな人しか集まらないのです。観客はもちろん、ボランティアもスタッフも、主催も、言ってしまえばクリエイターもそう。濃淡の差はあれどドキュメンタリー映画が集まるイベントに一定以上の魅力を感じる人が時間と距離をやりくりして訪れるわけで、(もちろん「内輪のノリ」には十分に注意を払う必要がありますが)ひとつの作品、ひとつのイベントを楽しむのにこれ以上居心地のよい空間はなかなかないのではと思います。
 また、実際の内容は千差万別とは言えどやはり題材が「ドキュメンタリー」なのもあってか、どのディスカッションも極めて真剣で、不適切だったり明らかに場を弁えない発言なども見聞きしませんでしたし、あれだけの観客数があってもよく言われるマナーの問題からも比較的解放されていたように思います。観客・スタッフを問わず全員がある程度「参加者」の意識を持てているとも言えるかもしれませんね。

 

3-2. クリエイターと観客の距離の近さ

 映画祭といえば制作者が登壇してティーチインして……というのはお馴染みの光景ですしそれ目当ての来場者も多いと思いますが、ドキュメンタリー映画におけるディスカッションはまた格別です。
 なにせドキュメンタリーにはセオリーがない(いやあるにはあるんですが、物語映画でいうところの「セオリー」とは違うものだと言っておくべきでしょう)。監督がその作品を撮ろうと思った意図からきっかけから、制作の方針、映像演出、撮影対象との関係、資金繰り、出品に至るまで、ほとんどの場合監督をはじめごく少数の製作陣がほとんど手探りで完成・スクリーニングに漕ぎ着けています。質疑応答となればそのあらゆる疑問について、実際作った人が直接教えてくださるわけで、こんな贅沢な機会はありません。ステージに上がっての質疑応答だけでなく、終映後ロビーに出て監督の都合が許す限りQ&Aが続くなんていうのもざらで、そうした機会は映画祭特有の、またそれもよい意味であまり「産業化されていない」映画祭ならではのものなのかなと思います。
 そしてこの点についてのYIDFFでの個人的な体験ですが、お昼ご飯に入ったカフェで他のお客さんからメモ用紙をもらえないか頼まれてそのまま話をしていたら、そのお客さんが、30分後に上映される作品の監督さん本人だった……なんてことも。実際行って見てみたらすごくよい作品だったんですが、その場で概要を伺って興味を持つことがなければ足を運ぶことはなかっただろうと思うと偶然って面白いものですね。おそらくこれもほんの一例で、期間中は監督や主催者のかたや観客として参加している映像作家のかたが文字通りその辺にごろごろいます。もうなんかみんなとりあえず目についた人に喋りかければいいんじゃないかと思う(雑)

 

3-3. 情報交換は積極的に

 さて、これだけの上映数がある映画祭の中で、自分好みのよい作品を探すのは結構骨が折れるものです。もちろん私はドキュメンタリー映画のことが好きで信頼してもいるので、どんな作品でも見てみれば見てみたなりに得るものがあると確信していますし、行き当たりばったりも悪くないと思っているのですが、それでもやっぱり自分にとって重要なテーマや面白い作品を選びたいという気持ちは出てくるものです。皆さんもおそらくご存知のとおり、ドキュメンタリー映画というのはどうしてもきっかけを掴みにくい。ジャンルの性質上、コンスタントに作品を発表できる監督は極めて稀ですし、物語映画と違って作品を出演者やスタッフなどで絞ることもほぼできないと言ってよいでしょう。そういうとき、公式のあらすじと共にとても重要になるのが、自分とは別の作品を見た人の意見です。
 先に書いたとおり、YIDFFというか映画祭では同じ作品が日を跨いで複数回上映されるのが普通です。ですから、上映の合間合間やその日が終わるごとにほかの人の感想を聞いて次の日以降の鑑賞計画を練る、というのが今回見つけた楽しみどころでした。映画祭二日目の昼を過ぎるともう結構な数のスクリーニングがされていますし、来場者の人たちの中でも「あれがよかった、これはこういうところが面白かった」など、様々な話が聞けるようになります。ちょっと勇気を出してお隣に座った人に話しかけるもよし、たくさんおられるボランティアさんにどんな感じか聞いてみるもよし。同じ目的で集まった者同士、意外と話が弾むはずです。そうして情報収集をしながら、ぜひ自分が見た作品の感想も多くの人に伝えていくとよいでしょう。ちょっとした一言が、誰かの大きな出会いのきっかけになるかもしれませんから。
 こうした参加者同士の交流をサポートする場として、映画祭の度に主催者組織が「香味庵」というレンタルスペースを借りて軽い飲食のできるフリースペースも設けてくれています。関係者でなくても誰でも入れますし、気軽に誰とも話ができます。もちろん監督をはじめスタッフのかたなどもディストリビューション兼交流のために顔を出されるので、改めてそこでいろいろ聞いてみるのもありかと。
 そしてこれについてはYIDFFが公式ツイッター等各種ソーシャルメディアアカウントも持っており映画祭期間中はハッシュタグも使っているので、たくさん呟いてそちらを盛り上げるのもいい方法だなと思います。もちろん私も会期中に呟けばよかったんですが、上映終了後もティーチインにがっつり聞き入っていたのもあり、自分の中で作品の咀嚼に時間が掛かったのもあり……。いやはやまだまだです。言葉にするって楽じゃないですけど、ちょっとしたことでもトレーニングにもなりますね。

 

3-4. ボランティア、スタッフについて

 映画祭に関して彼らの存在に言及しないわけにはいきません。YIDFFにもたくさんのボランティアやスタッフがいて、彼らのおかげで映画祭を楽しく過ごすことができました。チケットのもぎりからちょっとした休憩スペースの運営まで、大変お世話になりました。
 司会進行もボランティアの役割とのことで、英語−日本語の通訳も基本的にはボランティアさんによるものだったのでしょう。ほかの言語に関してどう役割分担がなされていたかはわからない部分も多いのですが、どなたも素晴らしい仕事をしてくださったことを、監督のティーチインにおける質疑応答の内容の濃さからよく感じました。
 ……これは私がHot Docsを含む複数のトロントの映画祭のボランティアをしてみて受けた待遇から感じることですが、ごく個人的には、もう少し会期中、ボランティアがどれくらいの人数でどの程度(かなりの範囲で)運営の力になっているのか、一般来場者向けにもっと広報してほしかったという思いがあります。シフトに入っていない時に映画が見られるなど各種利点はあるとはいえ、無償で映画祭に自ら時間と能力を貢献されたかたに、その程度の精神的リワードはあってもいいんじゃないかな。もちろん私からも最大限の感謝を!


4. 鑑賞した映画

 ここまでYIDFFの雰囲気が少しでも伝わればいいなと思いつつ書いてきましたが、最後に私が見た作品を。全体の上映数を思えば少ない限りですしまだ国内上映も配信も決まっていませんが、どれもほんとうによかったのでトレイラーの雰囲気と合わせてご覧ください。もし視聴可能になったらまたツイッター周りで騒ぐと思うのでぜひ……
 あらすじはYIDFF公式のものの引用・抜粋です。


『約束の地で』(In Our Paradise)フランス・2019
監督:クローディア・マルシャル Claudia Marschal

14年前に故郷ボスニアを離れフランス東部で家族とともに暮らすメディナ。その姉妹インディラは彼女を頼って移住を試みるも、ドイツで難民拒否の現実に直面し帰国を余儀なくされる。このふたりの女性とその子どもたちが思い描く未来には、いくつもの透明な壁が障害となって立ちはだかりその実現を阻もうとする。排外主義の高まりのなかでますます居場所を失っていく人びとの横顔と、救いの手を求めて発される言葉の声を、映画はきわめてドラマティックに捉えることに成功している。

 監督がフランス在住のメディナと知り合ったことが撮影のきっかけだったそうで、しかし、当初はインディラの存在を知らず、これほどものごとが絡み合った展開になるとは思っていなかったとのこと。移民を受け入れる側である監督自身が、立場を超えて率直な目で彼女たちを見つめることがとても重要だったと語っていたとおり、どちらの家族にとっても厳しい状況や垣間見える家父長制の足枷、子供たちの微妙な心の動きなど、様々な面から移民問題を立体的に捉えられる作品でした。


『誰が撃ったか考えてみたか?』(Did You Wonder Who Fired the Gun?)アメリカ・2017
監督:トラヴィス・ウィルカーソン Travis Wilkerson

監督自身の曾祖父が1946年に起こしたアラバマ州ドーサンでの黒人男性射殺事件。これまで親族の間でも隠され忘れ去られていたが、古い新聞記事を元に当時の状況を掘り起こし、自身の家族の闇にサスペンスタッチで迫る。人種差別主義者であり家族にも暴力を振るっていたこの曾祖父の、弱者に対する抑圧的人格を暴くことで、白人至上主義が当時も今も変わらず台頭する米国社会の病根を、白人である自分自身の問題として痛烈に提示する。

 ドキュメンタリーであり、監督自身の個人的な(あまりにも重い)ロードムービーでもあります。監督は作中で被害者の足跡も追おうとするのですが、その痕跡が恐ろしいほど少ない事実に慄然とさせられる。どうして見つからないのかは想像するまでもなく、かつそれが決して他人事ではない恐ろしさも含めて、今なお大きな問題を身の丈まで引き寄せたものでした。

 

『十字架』(The Crosses)チリ・2018
監督:テレサ・アレドンド、カルロス・バスケス・メンデス Teresa Arredondo, Carlos Vásquez Méndez

チリ南部の小さな町で起きた製紙会社組合員大量殺人事件。軍事クーデターから数日後の1973年9月、19人の工場労働者が警察に連行され、6年後、遺体となって発見された。解決に至らない事件はそのまま闇に葬られるかに見えたが、40年後、事件への関与を否定していた警察官のひとりがその証言を覆した時、製紙会社側と独裁政権の思惑が明らかになる。いまだ「死」がそこかしこに漂う閑静な町の姿と、殺害現場に立てられた夥しい数の十字架が声にならない叫びを上げ、国家が手引きした虐殺の歴史を告発する。

 町の各地の映像を切り取り、そこに警察官による裁判での証言記録の読み上げが重なるつくりの作品です。読み上げるのは被害者の遺族たち。遺族たちを撮影した映像はありません。監督たちは遺族たちとの対話を重ねて、絶対に彼らを悲劇として消費しないと誓い、こうした演出をすることに決めたそう。

 

『理性』(Reason)インド・2018
監督:アナンド・パトワルダン Anand Patwardhan

現代インドで深刻化するヒンドゥーナショナリズムの拡大と宗教的な対立。その状況に理性をもって抗する人間たちの姿を記録し、テレビ映像やインターネットにアップされた動画なども活用して構成された、全8章の大作である。根強く残るカーストがもたらしてきた悲劇、不可触民や女性への差別を解消しようとする闘争は、テロや暗殺という手段で挫かれても失われず、詩や音楽の力に導かれて甦る。本作は、排他的なポピュリズムが招く危機的状況に警鐘を鳴らすストレートなメッセージを届ける。

 インドの現首相のヒンドゥー至上主義については私も聞き及んでいましたが、まさかここまでとは……というのが正直なところ。映像の洪水のような構成。弱者・少数者の排除はナショナリズムが必ず踏む轍なんでしょうか。3時間超同じ勢いが続くので、問題意識に溢れていますが結構しんどい作品でもあります。

 

『ハルコ村』(Xalko)カナダ・2018
監督:サミ・メルメール、ヒンドゥ・ベンシュクロン Sami Mermer, Hind Benchekroun

監督の故郷クルドの村の男たちは欧州で働き生活している。忙しく手仕事をしながら、あれこれ話す女たちの日常の裏には、大きな「家族」の喜怒哀楽がつまっている。

  ハルコ村はトルコの外れにあるクルド人集落のひとつ。ここでは欧州への出稼ぎ移民となる男たちではなく、置き去りにされた女性たちが描かれます。彼女たちの境遇の原因として大きく横たわる男女間の不平等に縛られながら、しかし彼女たち自身もその生活・その「文化」の担い手であるという複雑すぎる状況が、過不足ない距離で丁寧に描かれています。

 

エクソダス』(Exodus)イラン・2019
監督:バフマン・キアロスタミ Bahman Kiarostami

アフガニスタンへの帰還を望み国境の出国管理施設に押し寄せる出稼ぎ労働者たち。家族や仕事、それぞれに事情を抱えた人々が織りなすレゲェ調「出イラン記」。

(トレイラーはリンク先である動画配信サイト「MUBI」紹介ページ右下「TRAILER」より視聴可能です)

 

 私も不勉強にて知らなかったのですが、アフガニスタンからイランへの労働者は従来非常に多く、それがアメリカによるイランへの制裁によってイランの通貨価値が下がることで揺らいでいるのがこの事態の原因であるとのこと。
 これは会期中めちゃくちゃ評判がよかった作品のうちひとつで、見てみるとなるほど噂に違わずというテイストでした。上記配信サイトのあらすじにある通りの「the strange interrogations」=奇妙な尋問、出国管理施設と聞いて想像される機械のような応対や厳しい排除とは明らかに異なる、イラン人であるオフィサーとアフガニスタン人労働者やその家族との、活気と不思議なユーモアと人間味のある短い会話の数々から、悲喜交交の無限の人生が見えてきます。

 

『これは君の闘争だ』(Your Turn)ブラジル・2019
監督:エリザ・カパイ Eliza Capai

公共交通機関の値上げ反対デモや、公立高校再編案に反対する学校占拠など、活発な政治運動を繰り広げるブラジルの学生たち。その記録映像に、当事者である3人の若者たちがナレーションを重ねていく。若者たちは、その歌うような軽快な語りとともに、学校を、そして街頭を次々と占拠し、政治家たちに自らの主張を認めさせていく。しかし彼らのこうした試みにもかかわらず警察の対応はより暴力的なものになっていき、ブラジルは極右政権の誕生へと向かっていく。

 この作品を見て、ブラジルにもそれぞれの高校や大学の垣根を超える巨大な学生組織があり、総会や各種会議を通じて連帯しているというのをはじめて知ったんですが、作中ごくわずかな描写だけでも圧倒されてしまう規模と熱量でした。連帯、団結が大きく描かれるテーマですがもちろんそれだけでなくて、彼ら彼女らが自ら語る目線の高さにある貧困や、アイデンティティセクシュアリティの揺れ、彼ら自身が学校占拠の行動を通じて男女間の格差に気付きそれを是正していく姿など、大人として身につまされる作品でもあります。これを見た上で今のブラジルのニュースを小耳に挟むたび、「今」この瞬間もそこにいるだろう彼らを案じずにいられません。


5. まとめ

 もちろん、見たいと思いながら叶わなかった作品も、私がアンテナを張れていなかっただけできっと好きになるような作品もたくさんあっただろうと思うものの、作品も、作品に関連する様々な体験も、すべて含めてとても充実した映画祭でした。
 次回の山形国際ドキュメンタリー映画祭は2年後、2021年の10月です。これを読んでくださったことで次回の映画祭を覗いてみようかなと思うかたがいらっしゃったり、あるいは今上映・配信されているドキュメンタリー映画をちょっと見てみようと思ってくださるかたがもし増えるなら、いちドキュメンタリー映画ファン・映画祭のファンとしてとても嬉しく思います。
 長い文章にお付き合いいただき本当にありがとうございます!

 

 映画祭についてはここまで。後編では、ドキュメンタリー映画・ドキュメンタリーというもの全体について考えていきます。

 

 

 

後編

 前編に戻る

 

1. そもそもドキュメンタリーとは

 前編をご覧くださったかたもこのパートからご覧くださっているかたもおられることと思うが、少なくとも、私がドキュメンタリー映画をとても好きだということは、おそらくどなたにも(暑苦しいほどに)伝わっていることだろう。
 ここでもドキュメンタリー映画とドキュメンタリーについて長く考えていくのだが、そもそも論として「ドキュメンタリー」とはなんなのか。再確認のために辞書を引いてみる。

 

ドキュメンタリー〔documentary〕
潤色を加えず、実際あった出来事をそのまま記録したもの。「─映画」【三省堂新明解国語辞典

 ……意味はわかる。わかるのだが、いまいちしっくりこない……というか上滑りの感がある。それはそうだろう。成り立ちからして日本語ではないのだから。
 というわけで、今度はオックスフォード英英辞典を手に取ると、前後の関連語も含めて訴えかけてくるものがある。以下が引用と日本語訳である。

 

documentary
noun(名詞)
a film or a radio or television programme giving facts about something
何らかの対象についての事実を提示する映画・ラジオもしくはテレビ番組

documentary
adjective(形容詞)
1. consisting of documents
文書から成る(何か)
2. giving a record of or report on the facts about something, especially by using pictures, recordings, etc. of people involved
特に関係者の画像・映像や録画・録音などを用い、何らかの対象についての事実を記録したり報じたりする(もの)


document

noun(名詞)
1. an official paper or book that gives information about something, or that can be used as evidence or proof of something
何らかの対象について情報を提供するか、何かを証明するための証拠として使われる公的な書類や書籍
2. a computer file that contains text that has a name that identifies it
あるものを特定する名前を持つテキストを含んだコンピュータ上のファイル


document

verb(動詞)
1. document something: to record the details of something
何らかの対象の詳細について記録する
2. document something: to prove or support something with documents
文書を用いて何かを証明あるいは支持する


documentation

noun(名詞)
1. the documents that are required for something, or that give evidence or proof of something
何かのために(他者から)要求される、あるいは、証拠を提供するもしくは何かの証明のための書類
2. the act of recording something in a document; the state of being recorded in a document
何かを文書の形で記録する行為、文書の形で記録された状態

 

 もちろん私は英語ネイティブではないし、英単語の言外のニュアンスを過不足なく読み取れるほど英語との付き合いが長いわけでも専門的なわけでもない。それでも、この定義の羅列から、documentaryとそれを取り囲む言葉たちがなにを示そうとしているのか、せめて片鱗を掴むことくらいはできたと思いたい。
 つまり、「ドキュメンタリー」とは、ただ機械的に巻き取られた媒体資料ではないのだと。ドキュメンタリーとは、(ときに踏みつけられ覆い隠されたりする、あるいはあまりにも些細であるために意識されないほど小さな)事実を、制作者の信念のもとに、証拠として、根拠として、証明として、公の場に知らしめる行為であり、被写体が示す真実を承認する記録なのだということを。


2. ドキュメンタリー映画である意義

 ドキュメンタリー映画を見ると言うと、特に映画好きではない人からは物珍しい存在のように扱われることが多い。それなりに映画に親しんでいる人でも、あえてドキュメンタリー映画をとなると結構少数派のように感じる(とはいえ、私だって物語映画と同じだったりそれ以上の比率でドキュメンタリー映画を見ているわけではまったくないのだが)。
 ドキュメンタリー映画アイデンティティを考えるとき、やはり比較対象になるのはテレビ番組のドキュメンタリー(以下、ドキュメンタリー番組もしくはテレビドキュメンタリーと記述する)だろう。テレビの番組カテゴリでいえば、ドキュメンタリーは、視聴率の差はあれど確実な固定客を持つ不動のジャンルと言っても誇張ではないと思う。テレビを見たことのある人の中で、どんな題材であれドキュメンタリーを見たことのない人はほとんどいないに違いない。同じ表現方法に含まれるのに提供媒体によってここまで普及度に差がある創作物というのも珍しいように思うが、その違いを注意深く見ていくと、相互に影響し合うふたつの理由に気づく。スクリプトとランタイムだ。

 基本的にドキュメンタリー番組は、あらかじめ設定された構成でわかりやすい結論を導く。それはテレビがいつでも誰にでも見られる媒体であることと、与えられた番組尺に限りがあることの相互関係にあると見なしてよいだろう。
 ほとんどの場合、ドキュメンタリー番組はナレーションあるいはテロップ抜きに成立しない。「わかりやすさ」のために外せない要素だからだ。途中から見ても構成の筋が追えるように、冒頭の時点で予測できるような結論に持っていくために、また、30分や長くても1時間少々など定められた時間内に収めるために、テレビドキュメンタリーは全力で言語情報を詰め込む。それ自体は悪いことではない。媒体と想定される視聴環境に最適化した結果だ。インパクトを与えるときもあるだろうし、題材が示唆する問題を強調するよう働くかもしれない。
 ただ、ドキュメンタリーとは「報道」の代替語ではないし、「ドキュメンタリー番組=ドキュメンタリー」でもない。
 先に私はドキュメンタリー番組を「わかりやすい結論に導く」ものと定義づけた。しかし、その前の項目で述べたドキュメンタリーが示す「事実」とは、いつもそれほど簡単に結論を引き出せるものだろうか?

 自論を述べる。ドキュメンタリー映画の最大の特徴は、その題材・被写体の複雑な事実を、題材そのものの雄弁さをもって、複雑なまま描き出すことだと私は考える。
 もちろん、ドキュメンタリー映画のつくりかたも様々だし、テレビドキュメンタリーの構成に準じたものも少なくない。そこに問題があるわけでも断じてない。しかし、高く評価されているもの、語り継がれているもの、そして私の心を打ってきたものは、決まって、安易な解答を提示することのない、複雑で繊細な作品たちだった。多くが長い時間をかけて撮影され、それ自体も長いランタイムの中で、主題は何度も迂回したり行ったり来たりしたり浮上したりまた沈んだりしながら、重層的に描かれる。たったワンカット、たったひとことのために数時間があるような作品も、細かな断片の数時間分の積み重ねがなければ成立し得ないような作品も、すべてが「事実」であり、同時に事実を示すためのプロセスでもある。
 ドキュメンタリー映画は答えをくれない。かといって、雑多に収録されたものの寄せ集めでもない。制作者は明確な思想や信念を持って撮影に挑むが、同時に自分の主題を何色にも染まらない目で見ている。制作者自身の強い思いと、バイアスで淀むことのない観察眼と、安逸な結論に走らない厳格な自制心を、極限のバランスで組み上げたものこそが、「ドキュメンタリー」となって観客に委ねられるのだ。


3. 大きく見開かれた目のように

ドキュメンタリー映画がよいものなのはわかっているけど、少し苦手なんだよね」と、ある友人が呟いたのを覚えている。大学で映画を専攻していた人で、映像メディアについては私よりよほど詳しい。
「しんどくなっちゃうからさ。どうしても」
 そう言ったその表情、その声色を、私はずっと私の記憶に留めていたいと思う。なぜなら、私もドキュメンタリーに対して「しんどさ」を感じてきて、そして今はそれが無駄ではないと信じることができているからだ。
 これは私のしんどさであって友人のそれと同質かどうかはわからない。けれどなんとなく、私と友人、そして今これを読んでいるあなたにも通じるものがあるのではないかという根拠のない直感がある。
 無力感。そのしんどさは、即ち「無力感」だ。

 この世界は知られ語られるべき問題に満ちていて、ドキュメンタリーは私たちにそれらを突きつける。正確に言えば、私たち(あえて私「たち」と言わせてほしい)はドキュメンタリーを見て、それを「突きつけられているように感じる」。特にドキュメンタリー映画の、あまりにも複雑で様々な要素が絡み合った現実を、どれほど表面的には猥雑であったり騒がしかったりするにもかかわらずどこか常に静謐なタッチで写し撮られた映像として見るとき、私たちはその作品と、作品を通して透かされる監督たちの研究者のような深い洞察と求道者のような高潔な精神を前に、頭を垂れ、恥じ入るしかないような気分にさせられる。世の中にはこれだけのことが起こっていて、そこに直面する人々がいて、そんな彼らの存在を証明し訴える人がいるのに、自分はなぜそれを快適な座席で眺めているのだろう。世界に溢れる問題を知るだけ知って、ただ頭でっかちになって席を立ち自分の生活に戻っていく私はなんて傲慢なんだろう。「どうせ私たちにはなにもできないのに」。
 そうではない。私はあなたの無力感の隣に立って、あなたが気がついていないかもしれないあなたの変化を指摘したい。

 ドキュメンタリー映画を見ることは、単にその主題を知ることに留まらない。作品を通して、制作者の「目」と「思考」をトレースする体験でもある。なぜ彼らがその主題を選んだのか、どのように主題に向き合いあるいは寄り添ったのか、どの瞬間に心を動かされ、どのようにそれを捉え、そしてどのようにそれを再構成して語ろうとしているのか。複雑なものが複雑なまま立ち現れるドキュメンタリーは、その複雑さをもって、私たちにどのようにものごとを伝えるかを教えてくれる。ドキュメンタリーの技法が多岐に渡るほど、観客としての私たちは、いかに自分たちが豊かに語ることができるかをそこから学ぶことができる。
 私には、映画をはじめとするドキュメンタリーたちが、短くない時間をかけて私のものの捉えかたを、捉えたものの解釈のしかたを、そして使う言葉や他者への向き合いかたを含むあらゆる表現を、少しずつ、しかし確かに変えてきたという実感がある。もっと言えば、ドキュメンタリーが私にものを感じ取ることを教えたひとつの大きなきっかけであるとさえ思う。それは間違いなく、私から私の身のまわりのあらゆるものへのアプローチのしかたに影響を与え、あらゆるものからのアプローチの受け止めかたに影響を与えている。ドキュメンタリーの技法によって、私もまた、私自身や私を取り巻くものをドキュメントし続けている。それらをレポートするのか、芸術にするのか、運動に結びつけるのか、研究するのか、さらに新しい向き合いかたを考えるのかもまた私次第だ。
 世界と繋がっていない人間はいない。それはつまり、すべての人間は否応なく世界によって動かされ、同時に世界を動かし続けているということの言い換えでもある。そしてドキュメンタリーは、ドキュメントの蓄積であると同時に、あなたが世界と繋がる手段を増やす方法そのものになる。
 しんどくなっちゃうからさ、と、ぽつりとこぼすように言った友人の姿さえ、私の中に収められたドキュメントだ。私が得たドキュメンタリーの能力が、その記憶を愛おしく切なく呼び起こす。

 ドキュメンタリーに触れるあなたは無力ではない。ドキュメンタリーは確かにあなたを大きく見開かれた目に変え、そこに映るものの捉えかたを変え、あなたの世界の動かしかたを変えている。世界はあなたによって動き続ける。きっとそれは巡り巡って、これから生み出されるドキュメンタリーをも変えるはずだ。そうして生み出されるドキュメンタリーを含むあらゆるものが、また私達の未来を動かしていくだろう。
 だから、ドキュメンタリーを見にいこう。自分の中にある、透明で傷も曇りもない大きな目の力を信じよう。あなたは無力などではない。あなたには世界のすべてに影響される力と、世界のすべてを動かす力がある。私たちはこの一年をよく揺さぶった。来年も揺さぶっていこう。そのためのやりかたを学びにいこう。

 

 一緒に世界を変えにいこう。私たちにはそれだけの力がある。

 

 

 

4. 余録

 最後に、私のおすすめのドキュメンタリー映画を三つ。できるだけ系統の異なるものを選んだ。たった三作でもこれだけ違いがあるのだから、いわんや他の作品をや、といった風情である。
 ぜひあなたにも新しいドキュメンタリーを探しに行ってほしいし、あなたによるドキュメンタリーも楽しみにしています。

 

『ミルピエ ~パリ・オペラ座に挑んだ男~』ティエリー・デメジエール/アルバン・トゥルレー

 2014年から2016年までオペラ座の芸術監督を務めたバンジャマン・ミルピエ氏の、監督として最初の演目の制作過程についてのドキュメンタリー。改革派のミルピエ氏によるオペラ座の保守的な制度や設備の刷新などにもカメラを向けている。こうした煽り文句や予告編を見るとセンセーショナルな作品を想像しがちだが、本編はあくまで舞台を作ろうと仕事をする同氏をはじめ様々なセクションの人々の真摯な姿を追う。私は、ただこの作品が好きなだけではなく、彼を取り巻く状況のざわめきに対するこのドキュメンタリーの落ち着きのギャップが好きなのかもしれない。

Amazon Prime|ミルピエ ~パリ・オペラ座に挑んだ男~(字幕版)

 

『ビハインド・ザ・カーブ −地球平面説−』ダニエル・J・クラーク

(※トレイラーは本国版)
 日本未公開、現時点ではネットフリックスでのみ視聴可能。私は2018年のHot Docs Documentary Film Festivalにて鑑賞。
 地球平面説を堅持するコミュニティのアメリカでの広がりに迫ったもので、テイストは一見いわゆるナショナルジオグラフィック系というか、専門家へのインタビューや図解も駆使した「わかりやすい」作品になっているように感じられる。それでも驚くのは、監督が明確に地球平面説を否定する立場でありながら、撮影対象である地球平面説コミュニティ・Flatterたちの懐にするりと入り、彼らの気負いのない言葉を引き出していることだ。彼らの言説は支持しない。科学の意義、そして監督自身の倫理観として、支持してはならないという厳しい一線も垣間見える。けれどそれは「彼ら自身を否定する」ことと決してイコールではない。凄まじいバランス感覚の上に成り立った、今まで見たことのない作品だった。

Netflix|ビハインド・ザ・カーブ −地球平面説−

 

『光のノスタルジアパトリシオ・グスマン

  もはや私の説明は不要では。有名な作品なのでご覧になったかたも多いかと思うが、未見の場合も再見もぜひ。ただ天文の世界の神秘性を表現するだけではなく、ただ独裁政権の禍根を知らしめるだけでもない、芸術と強い批判を両立させた、思索そのもののようなドキュメンタリー。次作である『真珠のボタン』もチリの重い歴史を多角的に描いている。

Amazon Prime|光のノスタルジア(プライム会員見放題)

 

 

 以上、長々と書かせていただいてありがとうございました。

 それでは改めましてみなさま、そしてはとさん、素敵な休日とよい一年を!

 

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