反響室の中と外

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C. C=ペレス『存在しない女たち』批判的感想

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 前評判がよく、早めに読んでおこうと手に取ったのだが、引っかかる点が多かった。問題の柱は3つ、そのすべてのベースとしてひとつの大きな懸念がある。いくつかは構造的問題であって直接この本即ち著者に責任をすべて帰すものではないが、確実に著者の思想と私が相容れない問題もある。
 それらを整理する。

 

 

女性の権利とは「生産性」のために擁護されるべきなのか?

 著者はデータ及びデータの不在をもって、女性の権利の向上を訴える。それ自体は問題ではない。たとえば装着型のギアや自動車の運転席、ピアノの鍵盤など、当事者であればうっすら気がついていたであろう「アンフィット感」を、改めて本書で指摘されて腑に落ちた読者も多いだろう。
 ただ、本書の主張の中で繰り返されるのは、女性を含めて制度設計すれば医療費の削減に繋がる、GDPが上昇する、効率化が進む、など「生産性向上」を疑いようなくよい結果として示す言説だ。
 また、微妙なニュアンスの部分になるのだが、女性が政治参加すれば弱者・子供にやさしい政策が決定されて社会福祉のレベルが上がる、等の記述もある。もちろん私が主権者として関与している日本とて現時点で公共福祉が行き届いているとはまったく思わないし、税の再分配の配分が弱者をサポートし格差を埋めるものになっているとはとてもではないが思えない。その理由として政策や運用の意思決定者に比較的高齢の男性しかいないことがあるのは容易に推察される。そのような構造によってそもそも女性が意思を表明すること自体を阻まれてきたことも充分理解できる。
 しかし、すべての女性が皆、政治参加したところで上記の政策を推進するものだろうか? もしこの論法をひっくり返して、「福祉や社会保障を充実させるために女性の政治家が必要だ」と読み取るなら、それは単なるジェンダーロールの再固定ではないのか?
 女性の権利が向上すれば、よりよい社会が期待できる。著者の主張はそこで、おそらく大部分で著者の指摘したとおりになるだろう。私も同意する。しかし問題は、ここで読み手が短絡的に「女性が進出するとメリットがある→メリットがあるから女性を進出させるべきだ」と読み替えることができてしまうところだ。
 女性に限らず弱者の権利は「有益だから」下支えされるようであってはいけないし、成熟した社会の当然の行為として是正されねばならない。そうでなければ、「現状を変えたところでメリットがないならこのままでいい」という資本及び効率至上主義的思想に自ら呑まれてしまいかねない。

 著者の略歴を読んでなるほどと思ったのは、行動経済学を学んだうえで本書を執筆している点だった。ジェンダーに基づく行動経済学の実践を謳う書籍には、既にイリス・ボネット著『WORK DESIGN 行動経済学でジェンダー格差を克服する』が存在する。こちらの書籍にも近年上記と同じ懸念を抱いたが、ボネットは女性の権利はそれそのものとして擁護されるべきだが、と注意深く前置きをしている(もちろん、それで著作の記述がすべて好意的に受け止められるようになるというわけではない)。また、「女性のことは女性に決めさせろ」という主張はもちろんごく当たり前のこととしながらも、果たしてそれだけでよいのかと言葉を選びながら思案したのは『舌を抜かれる女たち』のメアリー・ビアードだ。
 本書の著者とてこのようなある種のジレンマを理解していないはずはなかろうが、しかしすべてを善意的に解釈するには少々難しさを感じる。私の主張とて理想論だが、果たしてこの本を鵜呑みにしてしまってよいのだろうか?

 

男性中心社会をつくり維持してきたのは男性だけか?

 副題が示すとおり、本書に通底するのは男性優位的状況への批判だ。それはよくわかる。男性優位の社会の中で、どれだけ女性や弱者の声が抑圧されてきたか、それを否認する気は一切ないし、当然その直接的行為者の多くが男性であることも決して間違いではない。
 しかし、あるいはだからこそ、立ち止まって考えたい。男性優位の社会をつくってきたのは果たして男性だけなのか?
 本書の第16章「死ぬのは災害のせいじゃない」に2004年に発生したスリランカ津波についての指摘がある。そこには、少女や女性は社会規範上木を登ることをよしとされず習ってこなかったがゆえに津波に襲われ多くが犠牲になった旨の記述があるが、その社会規範を実践し、世代を超えて伝え続けたのは男性だけだと言えるだろうか? 木登りする少女をはしたないと嗜める社会の加害者は、ほんとうに男性だけだったのか?

 この問題についてはケイト・マン著『ひれふせ、女たち ミソジニーの論理』に詳しい。男性優位社会、即ち家父長制は、男性を加害者、女性を被害者に単純に置けるようなシンプルな問題ではなく、ミソジニーとは複雑に絡み合った賞罰システムであると本書は細かく解説する。もちろん、「社会のせい」で個々の男性の一切を免責するのは間違いだ。しかし、だからといって問題のすべてを男性のせいとするのもまた正しい世の中の捉えかたではない。少なくともこの男性優位社会をつくってきた人のうちには、あなたや私も含まれるのである。


犬笛

 これが本書の中で私が最も問題視する記述である。

優秀バイアスが生じる原因は、少なからずデータの欠落にある。歴史上の人物には女性の天才も大勢いるはずなのに、なぜかすぐに思い浮かばない。結局、「優秀さ」が職務要件となっている場合、それが本当に意味するところは「ペニス」なのだ。

 本書の118ページ、第4章「実力主義という神話」内、優秀さのイメージについての説明の途中で唐突に出現する「ペニス」という言葉。
 それでは、ペニスを持っているにもかかわらず、そのジェンダーアイデンティティによって周囲から拒絶され学校に通えなくなったり、就職自体することができなかったり、精神の健康を損なって職場を後にせざるを得なかったりする経験を持つ人が多いトランスジェンダー女性に対して、筆者は同じ言葉を発することができるのだろうか。あるいはペニスを有しないまま男性としての生活実感を獲得しているトランスジェンダー男性については? この文脈で問題にすべきなのは、ペニスという身体的特徴ではなく、「マスキュリニティ=男性性」ではないのか。
 これは明らかな身体至上主義であり、身体至上主義はここではトランスフォビアへの誘導になりうる。著者がシスジェンダー以外の人間の存在を認識・意図しているか否かにかかわらず、こうした主張は「犬笛」としてトランスフォビアを煽るものだ。私はこの表現を断じて許容できない。*1

 

おわりに:これは学術書ではない

 これまでの政治やアカデミア、労働市場などさまざまな世界をジェンダーの視点から見直す動きは、過去に存在しなかった視野の提供であり、社会改革を後押しするための動きになる。実際、本書の著者が拠点を置く欧米圏だけでなく日本を含む様々な国や文化圏でも同じ運動が興隆しつつある。
 しかし、ここで注意深くあらねばならないのは、「データの不在」は「不在」でしかなく、そこから推定される現状の問題はあくまで「推定」でしかないことだ。ジェンダーによって引き起こされている可能性の高い状況であっても、そこにあるファクターがジェンダーだけとは誰にも証明ができないのだ。人種は? 宗教は? 障害は? 年齢は? 経済格差は? これらやこれら以外のあらゆる要素の存在を加味せずに、「不在」だけをもって性別(それもたった二つしか認識されていない)に結びつけようとする記述の多い(と、私には読める)本書は、一般書として参考にはなるが専門書・学術書として認識するには危険度が高い。
 データが不在であるなら、集めなければならない。それを丁寧に実践している学術書としてアーシャ・ハンズ編『インドの女性と障害 女性学と障害学が支える変革に向けた展望』があるので、興味のある向きはこちらと比較していただくとその姿勢の違いが明らかになるだろう。

 本書の主張や著者の意図は道理に適っているように見える。心情的にはある程度私も理解できる。
 しかしそれはあくまでも思想及び理想であって、「事実」とは言い切れないことを、何度も何度も自分自身に警告しなければならない読書だった。
「データの不在」を「状況証拠」に近い現状の観察で埋め、それをもって「事実」に置き換える。それを続けた結果、なにが起こるのか。この懸念について、『争点としてのジェンダー 交錯する科学・社会・政治』巻末の補論において、著者のひとりである江原由美子が警鐘を鳴らしている。

 

 本書に興味を持っている未読のかたの意思決定に口を出す気はない。しかし、私個人としては、本書を手に取るのであれば可能な限りこれまで私が挙げてきた別の書籍にも目を通していただきたいし、それ以外のこれまで刊行されてきた様々な文献にも当たっていただきたい。もっと言ってしまえば、最低限上記それぞれの書籍があれば、本書の主張の背景にある原理や問題点は概ねカバーできると感じた。

 この本を「純粋に」受け止めてしまうこと。それは最終的に、再び2021年1月6日のアメリカ・ワシントンDCに結びついていくのではないか。
 私はフェミニズムが「オルタナ・ファクト」の燃料として投じられる姿を決して見たくはない。

 

 

*1:身体至上主義的記述は他にもあって、194ページ「「女性=専業主婦」の問題に関する論文の著者たちは、新しいアルゴリズムを考案し、ジェンダーに関するステレオタイプ化(たとえば、「彼」という単語を「医師」に、「彼女」という単語を「看護師」に結びつける)を、3分の2以上も減らすいっぽうで、ジェンダー的に適切な表現(たとえば、「彼」と「前立腺がん」に、「彼女」と「子宮がん」)は確保することに成功した。」を挙げておく。子宮がんになりうる私は「彼女」ではないのだが、その辺りはどう説明してくれるのだろう。