反響室の中と外

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A.ヘス『レストラン「ドイツ亭」』及びB.ポムゼル&T.D.ハンゼン『ゲッベルスと私』短評

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 読んだ順は間を置かずに前者→後者。ただし前者を読みはじめる1週間ほど前に後者の書籍と同じ制作チームが撮影した同名のドキュメンタリー映画を視聴している。この映画を視聴するに至った動機のひとつとして前者の出版情報があったため、どちらが先、という観念は今回に限ってはあまり重要ではないと判断している。私にとっては相互補完的な作品だったと言えよう。

 

『レストラン「ドイツ亭」』あらすじの時点でおそらく主題は自明なのでそこについてはこれ以上言及しない。とはいえ読んでいて強く印象付けられたのは主人公エーファのナイーブさで、それは結局(大雑把に人間を属性で区切った場合の)「加害者側のナイーブさ」につながっているのだろうなと感じた。これは私自身この属性(国籍・出自)ゆえに持つナイーブさでもあって、この語りの甘さに「「被害者側」の心情を一方的に想像して不快感を覚えながら」、「それでもそうした想像さえ変わり身じみて欺瞞となる自分自身の属性の加害の歴史を思い知らされる」ような読書となった。完全な憶測だがおそらく著者自身この物語を描くことのナイーブさを自覚していて、それでも批判の可能性覚悟でその道しか選べなかったのではないかと思った。そう思わせるような展開も本書には含まれる。
 大戦後、被害者の語りがもう一定以上行われたと捉えるかまだ不十分と考えるかは受け取り手によって差があるはずが、少なくとも、これまでドイツが(本書でも指摘される「集団記憶喪失」の時代以降に)被害者の尊厳回復に努めてきたと内外から捉えられているからこそ出版され得た書籍だろうなと感じる。
 余談だが、冒頭に主人公がポーランド語話者の発言を通訳しようとして完全に失敗するシーンがある。主人公がそれまでずっと商談系の通訳しか行ってきておらず、仕事ではない場で初めて出会ったその人が話す内容の「文脈」を履き違えたが故の出来事なのだが、そのことが拙いながらも第二言語・第三言語を扱おうとしている身に具体的描写として迫った。

 

ゲッベルスと私 ナチ宣伝相秘書の独白』「私」即ちポムゼルの主張には「矛盾がある」、と様々な方面から批評されていてそれはそれでなされるべき指摘ではあると思うのだが、そもそも人間ってそこまで己に整合性を見出せる存在だったことがあっただろうか、などと無駄に主語を肥大化させながら映画を追って書籍を読んだ。いずれも殊更ポムゼル個人のみにその責を負わせるわけでもなければ本人を免罪するような構成でもなく、(特に映画のほうは)制作者の理念だけでない手腕の確かさが窺えた。
「私に罪はない」という発言がキャッチコピーのように切り出されて未見・未読の人の目にも留まるようになっているわけだが、本編ではポムゼルはこの言葉に続けて「ただしすべてのドイツ国民に罪があると言うなら別」と述べている。上述の『レストラン「ドイツ亭」』と照らすと、この条件づけは非常に示唆的ではないだろうか。