反響室の中と外

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『マルモイ』から再度イ・ヨンスク『「国語」という思想』を見渡す(短評)

 2019年の韓国映画『マルモイ ことばあつめ』(原題:말모이)は、1942年に起きた朝鮮語学会事件を主題に取り、日本による韓国併合から第二次大戦終戦(日本の敗戦・韓国の主権回復)まで行われた朝鮮語弾圧とそれに対する抵抗を描いた作品である。映画の内容についてはここでは述べない。このエントリでは、この映画に描かれた「抑圧する側の言語」であった日本語(というよりも、書籍名にあるとおり「国語」と呼ぶほうが正しい)とその政治思想性、日本の”言語的近代”について論じたイ・ヨンスク著『「国語」という思想 近代日本の言語認識』、及び関連書籍について短く触れる。

 

 著者は本書において、「日本の「言語的近代」は、そもそも「日本語」という言語的統一体が本当に存在するのかという疑念から出発した。「国語」とは、この疑念を力ずくで打ち消すために創造された概念であるとさえいえる」と指摘し、「近代日本の「国語政策」が暴力的だったのは、「国語」の強大さではなく、その脆弱さのあらわれであった。(…)植民地において、いな、日本国内においてさえ、日本はけっして一貫した言語政策を打ち立てることはできなかった」と結論づけている。明治時代に入り、西洋の思想・文化に触れる中で相対化されようとしていた日本語という概念がいかに漠然とした実体の掴めないものであるのか認識し、それを統御しようとした学者・思想家の行動や提言の変遷には恐慌あるいは狼狽とでもいうべきものも見て取れる。一方、本書の中で朝鮮半島における言語政策について直接的に触れている箇所は全14章中2章(第11章・第12章)と分量としては決して多くはない。あくまで主題は「日本の言語認識」であって植民地支配そのものではないからである。しかし、そこに至るまでの、まるで沼のような道筋を著者の導きによって丹念に辿ること、即ち、本書によって表記法、言文一致、「標準語」への指向、そこに絡みつく「国体」なるものへの信仰や同化政策の源泉となる思想について知識を得、彼ら、そして地続きの私自身の中に根を張り燻る、「日本語」に向けられた優越感と劣等感の極度にないまぜになった執拗なまでのコンプレックス(読者としての私はこれをこそ「国語」と理解した)の一端を理解し、そのコンプレックスが他者に、それも”劣位”と一方的に見做す相手に自覚なく向かった時にどれほど悍ましい暴力となって発露されるのかを、「当時」という言葉で自身から切り離さずに知ることは、『マルモイ』で描かれた弾圧それそのものの実態はもちろんのこと、戦後に日本政府が在日韓国朝鮮人たちに対して為してきた政策の背景、及び、たった今日本国内で吹き荒れる(私自身もここに責任のある者のひとりとしてなお止めることができずにいる)コリアンルーツの人々・事象への憎悪の形を把握するため、そしてそれに対抗するためにも必須だと感じた。
 本書は1996年初出の単行本版及び2012年出版の文庫版ともに絶版となっており、現在は最寄りの図書館への問い合わせが最も有力なアクセス手段であろう。機会があればいちどご覧になることをお勧めする。

 

 上述の第12章「「同化」とはなにか」には、日本が朝鮮語を抑圧するにあたって根拠となる法律や一貫した「政策」のようなものは存在しなかった旨の記述がある。これだけでも愕然とするが、近年明らかになってきたナチスドイツのホロコーストへの歩みの再検討などを資料として頭に留めていると、むしろ愕然としてしまうほうが不見識なのかもしれないとも思えてくる。誰しも”そう”なりうる。私も例外ではない。